
型について
ぼくらに足りなかったもの
今ある環境は、あって当然、その恩恵を受けて当然、権利があって当然
でも、その今、当たり前にある今がどうやって作られてきたのか
1945年以降、それまで連綿と続いてた「自分達とは何者か」という2685年の歴史を
燃やされ、上書きされた、戦後世代の僕たち、団塊の世代とその子供である僕ら団塊ベビーは
「親を失った子どもたち」
今と過去から分断させられたぼくらは
「感謝」を失ってしまいました
全てのものが、自然に最初からあって、その恩恵を受けて当然、権利はあって当然
「当たり前」は「感謝」を上書きしてしまいました
誰に対する感謝?
感謝とは「誰に対する感謝?』
それは先人への感謝
今自分がいる場所の全て、自然環境も含めた全ては
先人が作ったもの、
それを守って引き継いだ人たちがいて
侵略され、奪われそうになっても
命と引き換えに
まもった人たちがいたから
今、自分達が生活できている
その感覚
今、見える範囲の世界ではなく
そこに、つながる人、これからつながる人を考えて行動してくれた先人がいたからこそ
今がある
日本人を2685年続かせた揺るがないアイデンティーから引き剥がさないと
いつ自分達に歯向かってくるかわかららないという恐怖が
歴史と教育の改ざんに向かわせて
学校教育、メディア、ありとあらゆる権力が
80年かけて、先人からの分断を、圧倒的な物量で絨毯爆撃のように行ってきました
でも、僕らには、それでも絶対上書きできない領域があるのだと思います。
絶対上書きできない領域
映画「君の名は」で
主人公の神社に伝わる行事や習慣を「何でやっているのか」は、昔に大火事で書物が焼けてしまって
すっかりわからなくなってしまったけど、
「何でやっているかわからないけど、子、孫に”型”を伝承する」
その結果、糸森町は彗星落下の大災害から人命が守られる
という、描き方がされていて
今、はっと思っています
内容は焼失しても
型
さえ伝えていけば、どこかの世代で、その型が内容を復活させる
日本の歴史が世界一なのも
離合集散を繰り返す欧米人には、とても考えつかない伝承の方法を
われわれは持っているのではないでしょうか
侵略者に侵略されても、その侵略者が気づかない、上書きできない領域があって
その領域から、どこかの世代で一気に再起動する
だから、僕らが子どもらに向かって(自分の子どものことじゃなくて)やらないといけないのは
日本人としての、「行いの型」を見せることなのでは
と考えるようになりました




