
本田翼似の美容師さんに髪を切ってもらい、山口洋の「明日のために靴を磨こう」を聴く
今がだめなら
それに至る道のりも全部ダメなので
過去は塗り替えられるべきもので
過去を全否定し、全て新しいもので上書きするのが
正しい
それを、大多数の人はわからない
生きるのに必死で、そんなことを考える時間がないか
そのことに気づいた人間が
強いられた無知の大衆を導く
というのが、リベラルという立ち位置なのですね
それは、なんだかかっこいい
年寄りの、古い油で固まった固着した社会をぶっこわし
自分たちで、まっさらな状態から、まったく新しい理想の社会をつくろーぜ
ってやつね
過去や、歴史は否定されるべきものなので
学ぶ価値もないから、勉強しなくていいから、とても楽
わくわくすることだけ考えて
有り余る時間を、自由に動く体で飛び跳ねて、肩組んで、
後先考えずに、ただただ、批判しぶっこわせばいいんだから
ドライカットっていいぞ
癖毛なわたくし
その癖は、髪の毛一本一本に
「俺は、他と違う、ぜったい他の髪の毛とかぶりたくない」
という明確な意思を感じる、自主独立具合で
自分の外見というものに
そのアンコントラーブルさから
あきらめざるを得ない人生を送ってまいりましたのです
家族が
「それはもう、何とかしたほうがいい、見させられるの立場に立って欲しい」
と嘆願するまで
髪の毛は切らないという具合で
しかし、この度ドライカットという切り方(流派)の美容室を近所で発見し
切ってもらったのですよ
その切り方に、そーいうことかーー!って
一人で激しく納得し
ふらっと寄った喫茶店でヒートウェイブ(山口洋)の「明日のために靴を磨こう」のシングルが、
ふとappleMusicで再生され始めて
わーーーーーーーーっとスパークして
書き出しちゃったのです
前出の強力な癖毛のわたくしが髪の毛を切りに行くと
美容師さんは、そっこーでシャンプーし
濡れて癖がない状態をつくって
つまり癖毛がない状態を作って
まるで直毛の人を扱うようにさくさく切っていくのですね
切っていく間に
だんだん癖がもどってきて
美容師さんも、ぼくも「あれあれ」って内心なりまして
結局、どんどん切られてゆき
毎回、んーー、なんだかとっても短くなるなぁ
うーーーん、うーーーん
ってなることを
運命として受け入れないといけないのかぁー
ってなっておったのです
つまり「癖毛」を無かったことにして
「新しい世界」をつくろうとしても
どーも、予想通りにはならん
ということなのですね
ドライカットって何か
私を担当してくれた本田翼似の美容師さんに、切られながら
その全く違う切り方と、小さいハサミ一本がものすごいスピードで動くその手捌きに圧倒され
根掘り葉掘り聞いて
わかったのです
あるがまま
その人のあるがまま
それはその人の歩んできた人生が違うように
様々な理由と事情があった結果
現在の状態が作られているので
それを無かったことにせずに
その状態から
良くない要素だけ取り除く
ドライカットって、僕の解釈では
「あるがままの状態から切り始める」
僕で言えば、乾かし切った大爆発の状態から切り始める
通常の美容室では、美容師さんがドライヤーすると、技があるのでうまくいくけど
自分でやると、なんか切った時の髪型にならん
ということがあるでしょう
美容師さんの技が作る、虚構の世界ベースではなく
だれが、いつ、どんな感じで乾かしても「そうなるよね」
ってところまで乾かして
そこから切り始めるのです
だから
切った後に乾かしても、美容師さんの技を使わなくても
誰がやってもそーなる
って状態がつくれるのです
うん、良く考えれば
めっちゃ合理的やん「その考え』
しかーし
これは、あくまで「切られる側」の合理的
切る側の合理性は「経済性」で測られる
あるがままの状態から
この部分がバランスを悪くしている
その部分も、毛先・中間・根元が悪さをしている
という目利きを美容師に求めるので
極端に美容師の能力に依存するカット手法なので
美容師を簡単に育成できないのです
しかも、その微妙な調整は「スキバサミ」も使えないので
めっちゃ時間がかかるけど
それを短時間でハサミ一本でできる手技は
日々鍛えないとできない
ということで
ドライカットができる美容室は少ないのですね
過去を否定しない
そこから、バランスを整えて
見極めて
調和をつくる
それは、冒頭の「リベラル」と
相対する考え方ですね
この目線
ぼくは、本田翼似に髪を切られながら
そのことを
いろんな出来事に当てはめて考えていたのです
そして、さっき
山口洋が20代で作って演奏していた
トゲトゲの「明日の為に靴を磨こう」と
栄光と辛酸を舐めたあとの「明日の為に靴を磨こう」(シングル版)を聴いて
同じことを、僕の細胞がキャッチしたのでした